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イタリアの巨匠 ルキノ・ヴィスコンティの生涯、バイセクシャルが描く表裏の世界

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イタリアの映画界の至宝

ルキノ・ヴィスコンティ

彼はイタリアの映画界の至宝で有ると同時に、ヨーロッパ文化の至宝でも有った...
彼は、自分の出生でもある貴族階級と、新しい時代の狭間にあり、その苦悩と、そして官能を、映像の中に描き続けた。

ヴィスコンティ自身がバイセクシャルであり、フランコ・ゼフィレッリやマルチェロ・マストロヤンニ、アラン・ドロン、そしてヘルムート・バーガーを愛した。
本人は若い頃からの美男子で、彼を見出したのはパリ社交界の花・ココ・シャネルであるから、女性からも相当モテたことも想像できる。
また貴族の出自で、イタリアのリゾート地コモ湖畔にも城を持つほどでありながら、一時期は共産主義に傾倒していく経歴を持つ。

ヴィスコンティ自身は、男と女、富と貧しさ、そして美と醜さの両面を見つめ、そして映画に昇華させた監督であった。
貴族としての血と共産主義者として独裁政治と戦う情熱と言う、真逆とも言える行動が、男女を超えた美への執着なのかもしれない。

ルキノ・ヴィスコンティ -作品と演出- はこちら

そして・・・

ヴィスコンティ生誕110年 没後40年メモリアル、第二弾!

-イタリア・ネオレアリズモの軌跡- 公式サイトはこちら

『若者のすべて デジタル完全修復版』 上映中
『郵便配達は二度ベルを鳴らす デジタル修復版』 2017年1月7日~
『揺れる大地 デジタル修復版』 2017年1月21日~

2016年12月24日(土)より新宿武蔵野館ほか全国順次公開

私にとってのルキノ・ヴィスコンティ

Luchino Visconti
彼の作品は、何かを訴えかけてくる。
まず、その映像に圧倒される。内容は判るが、彼が何をこの映画で語ろうとしているのかが、その場ですぐは判らない。
でも、観た後の何とも言えない、身体の中をえぐられるような感覚は、彼の作品ならではのものでもある。
ここでは、少しでも、彼の作品で何を伝えたかったのか?を解明したいと思う・・・

ルキノ・ヴィスコンティの生涯

ルキノ・ヴィスコンティの経歴

彼の祖先は、イタリア国王家以上に古く、イタリア・ルネッサンスの歴史にも深く関わっている。
八世紀から始まり、十二世紀になると、ヴィスコンティ一族の名が、ミラノを中心とした地域に散見されるようになる。
ヴィスコンテとは、イタリア語で子爵で有り、複数形のヴィスコンティがそのまま家名となった。
1800年代に侯爵の称号を譲られ、更に、オーストラリア行程に承認され、今日までに至っている。
ルキノの母方の祖父ルイジは、大作曲家ヴェルディの親友であり、本人もまた、優れた音楽家でもあった。
ルキノの父ジュゼッペは、コモ湖にある別荘で、ルキノの母、カルラと出会い、1900年に結構する。
カルラは、ミラノ社交界随一の美女であり、類い希な知性の持ち主でも有った。
その中で彼、ルキノは誕生する。1906年11月2日のことである。

Luchino Visconti

当然の如く、彼への教育は、典型的な貴族のそのものであった。 20歳になる頃は、乗馬に熱を上げ、騎兵教育を受けている。
同時期に父侯爵がミラノ芸術演劇座を興している。ルキノと演劇との関わりが、ここから始まる。
そして、彼にとって一つの転機が訪れる。
それは、イギリスを旅行し、パリに訪れたときである。
パリで、上流社交界に顔を出したルキノは、劇作家アンリ・ベルンスタイン、詩人ジャン・コクトー、舞踏家セルジュ・リファール、作曲家クルト・ヴァイルなどの文化人と知り合うが、もっと重要なことは、彼を後に、映画界に導くことになる、ココ・シャネルと知り合ったことだった。

彼は、パリの映画に魅せられた・・・
エーリッヒ・フォン・シュトロハイムの『結婚行進曲』、ジョゼフ・フォン・スタンバーグの『嘆きの天使』、レゴーシンの『孤帆は白む』などに強い感銘を受けた。
彼は、早速、撮影機を買って映画作りをはじめた。
その話を聞いて、ココ・シャネルが、自分の友人でも有る、ジャン・ルノワールを紹介した・・・’36年の夏のこと。
ルキノは、ルノワールの『ピクニック』の助手を手始めに、『どん底』、『大いなる幻影』の準備も手伝った。
また、ルノワールとその仲間達は、フランス共産党員であり、ルキノの政治的な開眼にも大きな影響を与えた。
後に赤い貴族と言われる所以である。

ルノワールがローマでサルドゥーの『トスカ』を映画化しようとした時、ローマのロケ・ハンは、ルキノが案内していたものの、第二次世界大戦で、ルノワールは、フランスに戻る。
この後を引き継いだものの映画化にはたどり着けなかった。
この頃、いくつかの脚本を執筆しているが、映画化されていない。
また、ミラノからローマに移住するが、死ぬまで、故郷のミラノの地に戻ることはなかった。

映画批評誌“チネマ”誌上で、初めての論文“死体”を発表、旧態依然のイタリア映画界を攻撃し、新しい方向、“リアリズム”の方向性を明確にした。
この論文は、ルキノ・ヴィスコンティの名前を反体制の若者達の間で、一躍有名にした。
かねて、ルノワールに薦められていたジェイムス・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(日本語題名)を脚本化、後に『妄執』(イタリア語原題)と変えられ、映画化された。
1942年、検閲、カットを強いられる中、完成、公開までたどり着いた・・・これが、彼のデビュー作となる。
その頃、ムッソリーニが失脚、ドイツ軍がイタリア占領、ルキノの反ファシストとしての闘争が始まる。

戦後、彼は、演劇の世界に身を置く。
彼は、数多くのオペラ・演劇の演出を手掛ける。
もちろん、これらの舞台手法が、彼の映画作品にも、影響を与えていることは、言うまでもない。
’54年には、マリア・カラスを主演にしたオペラ「ラ・ヴェスターレ」を演出し、オペラ界への進出も果たした。
カラスとの友好もここから始まった。
その後の映画界での活躍は、次に紹介する。
その中で、彼は、「ルートヴィヒ 神々の黄昏」の撮影が終わり、編集に入る直前の’72年7月27日の夜、ローマのホテルで、心臓血栓の発作に倒れる・・・
半年の闘病生活の後、編集を終わらせ、公開にこぎ次ぐ。
彼は、車椅子での生活が始まり、それを気遣った周りの人々が、全てセットで、「家族の肖像」を完成させる。続く、「イノセント」を完成させ、ダビングの最中の1976年3月17日に自分の部屋で、亡くなった・・・

ルキノ・ヴィスコンティ

ルキノ・ヴィスコンティ・・・・・
英知の人、その偉大な仕事によって祖国の、ヨーロッパの、世界の芸術の、映画の、演劇の歴史を30年以上ものあいだ背負った人
われわれは忘れない
彼が、レジスタンスでの戦闘的な反ファシストであったことを
そして、労働階級とその闘争に
つねに心からの連帯と忠誠を表明し続けたことを・・・・・

ヴィスコンティの死に際して、ローマ市中の移籍の壁に張り出されたポスター

2016年、ヴィスコンティの生誕110年と没後40年を記念して、
日本で映画『山猫』の4K修復版と映画『ルートヴィヒ』デジタル修復版が上映された。

Filmography

郵便配達は二度ベルを鳴らす Ossessione 1942

揺れる大地(海の挿話) La Terra Trema(Episodio del Mare) 1948

ベリッシマ Bellissima 1951

われら女性 第五話(アンナ・マニャーニ) Siamo Donne : Fifth Episode 1953

夏の嵐 Senso 1954

白夜 Le Notti Bianche 1957

若者のすべて Rocco ei Suoi Fratelli 1960

ボッカチオ'70 第三話=前金 Boccaccio '70 : Il Lavoro 1962

山猫 The Leopard (Il Gattopardo) 1963

熊座の淡き星影 Vaghe Stelle dell'Orsa 1965

華やかな魔女たち 第一話=疲れ切った魔女 Le Strega Bruciata Viva : Le Streghe 1967

異邦人 The Stranger(Lo Straniero) 1967

地獄に堕ちた勇者ども The Damned(La Caduta degli Dei) 1969

ベニスに死す Death in Venice(Morte a Ven Venezia) 1971

ルートヴィヒ 神々の黄昏 Ludwig 1973

家族の肖像 Conversation Piece(Gruppo di Famiglia in un Interno) 1974

イノセント L'innocente 1976

映画『山猫』は、マーティン・スコセッシが設立したThe Film Foundationとグッチの資金提供により、2010年に約1億円の費用と1万2000時間をかけて修復されたもの。

受賞歴

アカデミー賞

1969年
脚本賞ノミネート『地獄に堕ちた勇者ども』

カンヌ国際映画祭

1963年
パルム・ドール(グランプリ)授賞『山猫』

1971年
25周年記念賞授賞『ベニスに死す』(ルキノ・ヴィスコンティ自身の功績も共に表彰)

ヴェネチア国際映画祭

1948年
国際賞授賞『揺れる大地』

1957年
サン・マルコ銀獅子賞授賞『白夜』

1960年
審査員特別賞授賞『若者のすべて』
国際映画評論家連盟賞授賞『若者のすべて』

1965年
サン・マルコ金獅子賞授賞『熊座の淡き星影』
チネマ・ヌオヴォ賞授賞『熊座の淡き星影』

デジタル修復版は劇場では何度か上映されているが、Blu-ray化されるのはこれが初めて。
DVD版がかなりフィルムの痛みが激しかったので、今回のBlu-ray化は本当に嬉しい限り。

ルキノ・ヴィスコンティの年表

1906年

11月2日 モドローネ公爵ジュゼッペ・ヴィスコンティとその妻カルラ・エルバとの間に第四子(三男)としてミラノに生まれる。
小学校の過程を家庭教師について修学し、主にドイツ語と音楽を学ぶ。
中等教育は、市立の学校で受ける。
両親は音楽と演劇を愛好し、一家はしばしばミラノのスカラ座へ通っていた。
ヴィスコンティ邸ではコンサートや公爵の友人達が参加して、芝居が催されたりもした。
子供達の教育を熱心に監督したのは、母親のカルラであった。ルキノは母の命により、毎朝学校に行く前にチェロの練習をしていた。

1914年

第一次世界大戦が勃発。イタリアは翌5月、英仏協商国側に立って参戦。
この頃、ヴィスコンティはシェイクスピアの『ハムレット』を演出する。
ハムレット役はルキノ自身が、オフィーリア役は有名な指揮者トスカニーニの次女が演じる

1920年

6月 ミラノ音楽院のコンサートで、チェロのソロ演奏を行い、新聞に好意的な批評が載る。
父に勧められてプルーストの長編小説『失われた時を求めて』を読み始める。

1922年

18歳の時に神秘主義的な憧憬のため、モンテ・カッシーノのベネディクト修道院へ入る。

1926年

ピネローロの騎兵実科学校へ入隊し、二年間兵役に就く。

1927年

除隊後は競走馬の飼育に没頭。

12月 父の出資するテアトロ・ダルテ劇団がゴルドーニの『賢妻』を上演し、ルキノは小道具を手伝う。

1929年

9月 ピアチェンツァの近くでスポーツカーで追突事故を起こし、同乗者が死亡。

12月 彼は持ち馬のエストゥルゲオンを駆り、サン・モリッツ競馬で優勝する。

1930年

サン・シロに厩舎を建設。

1931年

新規に七頭の競走馬を購入し、その中の愛馬サンツィオは、翌年、ミラノとオステンダのレースで共に優勝。

1933年から1934年

パリに渡る。
この頃、パリの社交界でジャン・コクトー、カブリエル(ココ)・シャネルらと知り合う。
また、スタンバーグの『嘆きの天使』やシュトロハイムの『結婚行進曲』を観て映画に傾倒するようになる。

'34年冬 キッツピューヘルでオーストリアの公爵令嬢イルマ・ヴィンディッシュ・グレーツと大恋愛の末、結婚を決意するが、イルマの父親の反対で挫折に終わる。

Visconti

1935年

映画監督でもある製作者ガブリエル・パスカルに、フローベールの小説『十一月』の映画化を共同で行いたいともちかけられ、ロンドンに渡る。
しかし、パスカルの人格を知って、企画の実現性が低いだろうと判断し、パリに戻る。

1936年

夏 ガブリエル(ココ)・シャネルの紹介で、ジャン・ルノワール監督の映画『ピクニック』の、衣装と第三助監督を務める。

10月 コモのソチアーレ劇場でトラヴェルシの喜劇『世間の同情』の上演及び、翌月ミラノでのマロリーの喜劇『甘いアロエ』の上演で舞台装置を担当。

1937年

8月 ギリシアに旅行。翌年にかけてアメリカに渡り、主にハリウッドで映画製作の状況について見学し、遠近法などを学んで後の舞台美術に応用する。

1939年

1月16日 コルティーナ・ダンペッツォで母親のカルラが他界。享年59歳であった。

4月 ジャン・ルノワールのイタリア映画『トスカ』の脚本と撮影に協力するためにローマに向かう。

9月 ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる。イタリアは中立を守る。

1940年

6月 イタリアが枢軸国側に立って参戦したため、ルノワールは撮影数日にして帰国を余儀なくされる。その後、ヴィスコンティはチーフ助監督のカール・コッホを補佐してこの作品を完成させる。

1941年

カール・コッホと『ドン・ジョヴァンニ』及び『カントリー・ダンス』の原案を書く。
ローマのコッホの家で、ジュゼッペ・デ・サンティスとダリオ・プッチーニに出会い、映画評論誌『チネマ』の同人に迎えられる。

6月 『チネマ』誌に「屍体」と題した論文を発表。また、『スティーレ・イタリアーノ・ネル・チネマ』誌に「伝統と発明」と言う記事を書く。
この頃、『チネマ』の同人達とトーマス・マンの『犬と主人』『無秩序と幼い悩み』、アラン・フルニエの『モーヌの大将』、ジュリアン・グリーンの『アドリエンヌ・ムジュラ』などの映画化を検討。また、ジョヴァンニ・ヴェルガの『グラミーニャの恋人』『マラヴォーリア家の人々』『羊飼イエーリ』の映画化権を得て、その中の『グラミーニャの恋人』を脚色。だが、この脚本は検閲に引っかかり却下される。

12月 父ジュセッペが他界。ローマのサラリア街の別荘を譲り受ける。

1942年

6月15日 以前より映画化の計画を温めていたジェイムス・ケインの小説『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の撮影を開始。

10月 長兄のグイドがエル・アラメインで戦死する。

12月 脚本に協力したマリオ・アリカータとジャンニ・プッチーニが、反ファシストの容疑で警察に逮捕される。

1943年

5月16日 ローマのアルコバレーノ館で映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』が公開。数日にしてイタリア各地で上映禁止となる

9月8日 「反ファシスト被害者救済委員会」に加わり、ローマのサラリア街の家で収容所や監獄からの脱走者を匿う。

9月~10月 『チネマ』誌に「チネマ・アントロポモルティコ」という記事を発表

10月27日 アプルッツォに潜伏していたヴィスコンティは、友人達と連合軍に合流するため南下。

Visconti

1944年

2月 偽名で密かにローマに戻り、パルチザンを援助。

4月15日 ヴィスコンティはローマで逮捕されペンシオーネ・ヤッカリーノ収容所へ送られる。数日後、サン・ジョルジョ牢獄に移送。

6月3日 ヴィスコンティは処刑される前日に脱走。九死に一生を得る。

6月4日 アメリカ第五軍によって、ローマが解放される。

6月~7月 レジスタンスの仲間と、彼の体験を生かした『ペンシオーネ・オルトレマーレ』の原案を執筆。

秋 ミケランジェロ・アントニオーニ達とレジスタンス映画の企画を練る。

1945年

1月30日 ローマのエリゼオ劇場でコクトーの『恐るべき親たち』で舞台演出家としてデビューを飾る。

3月 ローマのクイリーノ劇場でヘミングウェイの『第五列』を上演。

5月 スタインベックの『怒りの葡萄』の映画化の契約をルックス・フィルムと結ぶが、実現せず。

6月4日 ペンシオーネ・ヤッカリーノの所長ピエトロ・コッホに対する裁判に証人として出廷。マルチェッロ・パリエーロ達とレジスタンスを扱ったドキュメンタリー映画『栄光の日々』の一部を担当し、自分を尋問したコッホの処刑を自らの手でフィルムに収める。

10月2日 ローマのエリゼオ劇場でコクトーの『タイプライター』を上演。

10月18日 ローマのエリゼオ劇場でアヌーイの『アンチコ゜ーヌ』とサルトルの『出口なし』を上演。

10月 イタリア・パルチザン協会の出資で、エリオ・ヴィットリーニの『人間とそうでないもの』の映画化を了承するが、実現せず。

10月30日 ローマのクイリーノ劇場でアシャールの『アダム』を上演。

12月4日 ミラノのオリンピア劇場でコールドウェルの『タバコ・ロード』を上演。

12月14日 ミラノでの『アダム』が上演禁止となる。

1946年

1月14日 ベネツィアでの『アダム』が上演禁止となる。
ローマのクイリーノ劇場でポーマルシェの『フィガロの結婚』を上演。

9月 劇団「コンパニーア・イタリアーナ・ディ・プローザ」を設立する。

11月 ローマのエリゼオ劇場で新劇団による『罪と罰』を上演。

12月 ローマのエリゼオ劇場で『ガラスの動物園』上演。

1947年

1月 ローマのエリゼオ劇場でヴィスコンティ監修の『父との生活』が上演される。

2月 フィレンツェのデ・ベルゲラ劇場でアヌーイの『ユリディース』を上演。

1946年~1947年

ミケランジェロ・アントニオーニらと『マリア・タルノフスカ裁判』の脚本を書く

1947年~1948年

イタリア共産党の要請により、南部同盟を扱ったドキュメンタリー映画を撮るためにシチリア島に赴く。
ベルガの小説『マラヴォーリア家の人々』を元にした映画『揺れる大地』を完成させる。

1948年

5月 ヴェネチア映画祭で映画『揺れる大地』が上演され国際賞を受賞する。

11月 ローマのエリゼオ劇場でシェークスピアの『お気に召すまま』を上演

Visconti

1949年

1月 ローマのエリゼオ劇場で『欲望という名の電車』を上演。バスコ・プラトリーニの小説『貧しい恋人たちの日記』の映画化を企画するも実現せず。

4月 ローマのクイリーノ劇場で『オレステ』を上演する。

6月 フィレンツェ五月音楽祭でシェークスピアの『トロイラスとクレシダ』を上演。

1949~50年

メリメ原作『サン・サクルマンの四輪馬車』、19世紀ナポリの大俳優アントニオ・ペティートの伝記映画、ダンス・マラソン、ミラノの貴族の実業家一家の物語の企画を検討する。

1951年

2月 ローマのエリゼオ劇場で『セールスマンの死』を上演。

4月 ミラノのヌオーヴォ劇場で『欲望という名の電車』を新演出にて上演。

10月 ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でファッブリの『誘惑者』を上演。内務省がベルトルト・ブレヒト率いるベルリン・アンサンブルの入国を拒否したため抗議。

12月 短編記録映画『ある三面記事についてのメモ』を撮影するがイタリア国内では上映禁止になる。
アンナ・マニャーニ主演の映画『ベリッシマ』公開。

1952年

10月 ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でゴルドーニの『宿屋の女主人』を上演。

12月 ローマのエリゼオ劇場でチェーホフの『三人姉妹』を上演。

1953年

スーゾ・チェッキ・ダミーコと『結婚行進曲』の脚本を書く。

3月 ミラノのヴィア・マンゾーニ劇場でチェーホフの『煙草の害について』とエリビデスの『メディア』を上演。

秋 トスカニーニが、ミラノのミッコロ・スカラのこけら落としに『ファルスタッフ』を上演すると発表、演出をヴィスコンティに依頼するが、実現せず。

10月 ルキノがアンナ・マニャーニのエピソードを担当したオムニバス映画『われら女性』公開。

1954年

9月 映画『夏の嵐』がヴェネチア映画祭で上演。

10月 ミラノのヌオーヴォ劇場でレビュー『フェスティバル』、オリンピア劇場でジャコーザの『木の葉のように』を上演。

12月 オペラ『ラ・ヴェスターレ』の演出でミラノのスカラ座デビューを実現。

Visconti

1955年

3月 スカラ座でオペラ『夢遊病の女』を上演。

5月 スカラ座でオペラ『椿姫』を上演。

11月 ローマのクイリーノ劇場でミラーの『るつぼ』を上演。

12月 ローマのエリゼオ劇場でチェーホフの『ワーニャ叔父さん』の上演。

1956年

2月 ミラノのクイリーノ劇場で新演出の『セールスマンの死』を上演。ミラノのスカラ座でトーマス・マンの原作のバレエ『マリオと魔術師』を上演。カラヤンがザルツブルク音楽祭でモーツァルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』の演出を依頼するが、実現せず。

6月 パリのサラ・ベルナール劇場で『宿屋の女主人』を再演。

秋 マルチェロ・マストロヤンニ、スーゾ・チェッキ・ダミーコ、フランコ・クリスタルディとチアス映画社を設立する。

1957年

1月 ローマのアルティ劇場でストリンドベリィの『令嬢ジュリー』を上演。

4月 ミラノのスカラ座でオペラ『アンナ・ボレーナ』を上演。

6月 スカラ座でオペラ『トーリードのイフィジェニー』を上演。

8月 ヴェネチアのラ・フェニーチェ劇場でゴルドーニの『スミルネの興行師』を上演。

9月 ヴェネチア映画祭でチアス社製作の映画『白夜』が銀獅子賞を受賞。
西ベルリンの国立オペラ劇場でバレエ『ダンス・マラソン』を上演。

秋 映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』が再公開される。

1958年

1月 ローマのエリゼオ劇場でミラーの『橋からの眺め』を上演。

4月 パリで『スミルネの興行師』を再演。

5月 ロンドンのコヴェント・ガーデンでオペラ『ドン・カルロ』を上演。

6月 スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『マクベス』を上演。

夏 映画『若者のすべて』の脚本執筆。

10月 ローマのクイリーノ劇場でジェラルド・クェリエーリによる追憶の夕べ『エレオノーラ・ドゥーゼの面影と時代』に参加する。ローマのクイリーノ劇場で『天使よ故郷を見よ』を上演。

11月 パリのアンバサドゥール劇場で『シーソーの二人』初演。ランペドゥーサの『山猫』刊行される。

12月 ローマのエリゼオ劇場で『ギポンズ夫人の子供たち』を上演。

1959年

3月 ローマのエリゼオ劇場でファッブリの『芸術の子たち』を上演。

6月 スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『アルバ公爵』を上演。

1960年

2月~6月 映画『若者のすべて』の撮影。

9月 映画『若者のすべて』がヴェネチア映画祭に出品され、審査員特別賞・国際映画批評家連盟賞を授賞

12月 ローマのエリゼオ劇場でテストーリの『アリアルダ』上演。

 

1961年

2月 ミラノで『アリアルダ』が上映禁止となる。

3月 パリのテアトル・ド・パリで『あわれ彼女は娼婦』を上演。

6月 スポレートのヌォーヴォ劇場で楽劇『サロメ』を上演。

11月 シチリアに映画『山猫』のロケハンを行う。

1962年

2月 オムニバス映画『ボッカッチオ’70』が公開。ヴィスコンティはその中のエピソード『前金』を担当(主演はロミー・シュナイダー)

1963年

2月 パレルモのマッシモ劇場でオペラ『庭園の悪魔』を上演。

3月 映画『山猫』がカンヌ映画祭に出品され、グランプリを授賞

6月 スポレートのヌオーヴォ劇場でオペラ『椿姫』を上演。

7月 スポレートのカイオ・メリッソ劇場でジイドの『十三番目の木』を上演。
オーソン・ウェルズ、ロベール・ブレッソンらとディノ・デ・ラウレンティス製作の『天地創造』の1エピソードを担当する予定であっが、最終的にジョン・ヒューストンが一人で演出することとなる。

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1964年

5月 ローマのオペラ座でオペラ『フィガロの結婚』を上演。

9月 モスクワのボリショイ劇場で『イル・トロヴァトーレ』を上演。

11月 ロンドンのコヴェント・ガーデンで『イル・トロヴァトーレ』上演。

1965年

1月 パリのデュ・ジムナズ劇場でミラーの『転落の後に』を上演。

9月 ヴェネチア映画祭に映画『熊座の淡き星影・・・』が出品され、金獅子賞を授賞。

10月 ローマのヴァレ劇場でチェーホフの『桜の園』を上演

11月 ローマのオペラ座でオペラ『ドン・カルロ』を上演。メトロポリタン歌劇場からビゼーのオペラ『カルメン』の出演を依頼されるが、実現せず。

1966年

3月 ウィーン国立歌劇場でオペラ『ファルスタッフ』を上演。

4月 ロンドンのコヴェント・ガーデンで楽劇『ばらの騎士』を上演。

1965年~1966年

ロベルト・ムジールの『若きテルレス』、『マリア・タルノフスカ』等の映画化を検討する。

1967年

2月 オムニバス映画『華やな魔女たち』(ヴィスコンティはその中の『疲れ切った魔女』のエピソードを担当)が公開

4月 ロンドンのコヴェント・ガーデンで新演出のオペラ『椿姫』を上演。

6月 フィレンツェのビッティ宮でゲーテの『エグモント』を上演。

9月 映画『異邦人』(カミユ原作)が公開。

10月 チェゼーナのポンチ劇場でテストーリの『モンツァの尼僧』を上演。フィレンツェ五月音楽祭で、オペラ『オテッロ』を演出する話があったが、実現せず。
現代翻訳版の『マクベス』の映画化、音楽家プッチーニの伝記映画『見知らぬ者の肖像』、プルースト作品の映画化を検討し始めるが、どれも実現せず。

年末 映画『地獄に堕ちた勇者ども』の原案をまとめる。

1969年

2月 ミラノのサン・パビラ劇場でギンズブルグの『インセルツィオーネ』を上演。

3月 ウィーン国立歌劇場でオペラ『シモン・ボッカネグラ』を上演。

10月 映画『地獄に堕ちた勇者ども』が公開、ヨーロッパ各地で大ヒットとなる。

1970年

メディオーリと『世にも怪奇な物語』のエピソードとして『メルツェルの将棋指し』を準備するが、実現せず。

1971年

3月 ロンドンで映画『ベニスに死す』のプレミア上演。
プルースト原作の『失われた時を求めて』映画化の準備をすすめる。

1972年

1月~4月 映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』のドイツ・オーストリアでのロケを行う。

7月27日 ローマのエデン・ホテルで製作者達と新作を検討中、発作で倒れる。

9月 スイスの病院を退院し、チェルノビオの別荘で、映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』の編集を完了。スカラ座でワグナーの『ニーベルンクの指輪』の演出を計画するが、病状が芳しくなく断念。

Visconti

1973年

1月 西ドイツのボンで、映画『ルートヴィヒ~神々の黄昏』のプレミア上映。

1973年~1974年

プルースト原作の『失われた時を求めて』とフィッツジェラルドの妻の伝記映画『ゼルダ』の映画化を断念する。

1974年

4月~7月 映画『家族の肖像』を撮影。

12月 映画『家族の肖像』公開。

1975年

トーマス・マンの『魔の山』とダヌンツィオの『快楽』の映画化を企画するが、実現せず。

4月 転倒して肩と脚を骨折、数ヶ月間の病院生活を送る。

9月27日 ダヌンツィオ原作・映画『イノセント』の撮影開始。

1976年

1月 映画『イノセント』の撮影完了

3月17日 ローマのフレミング街のマンションで死去。

3月19日 聖イグナチウス教会で葬儀が行われる。

5月 カンヌ映画祭で映画『イノセント』が上映。

Visconti

特集2 作品と演出

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